稀代の投機家ジョージ・ソロス いかにして世界最大のヘッジファンドを築いたのか

ジョージ・ソロスといえば「イングランド銀行を潰した男」という異名を持つ投機家として知られています。また、世界三大投資家とも言われるジム・ロジャーズとファンド運営を共にしていたことでも有名です。

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そのパフォーマンスは桁違いであり、30年間で5351倍というウォーレン・バフェットよりも高い成長率を記録しています。そして、1969年から一時引退した2000年までの年率平均リターンは31%という驚異のパフォーマンスを誇っています。

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そんなソロスはいかにして相場を読み、高い収益をあげたのでしょうか。

ソロスの歩みを知るとともに、代表的な相場でいかに利益を上げたのか解説していきます。

ジョージ・ソロスの年表

1930年にハンガリーで生まれ、戦争を経験した後に単身イギリスで留学。証券業界で働きながらアメリカに渡り着実に実力を高め、ヘッジファンドを運用しながらあらゆる相場を乗り越えてきたジョージ・ソロス。彼の歩みを見ていきましょう。

1930年ブダペストのユダヤ人家庭に二人兄弟の次男として生まれる。
1945年ハイパーインフレーション下のハンガリーで初めて通貨取引を行う。
1947年単身イギリスに渡る。
1949年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) に入学。卒業後はセールスマンとなる。
1953年シンガー & フリードランダー銀行に入社し、金と株式の裁定取引を行う。
1956年アメリカに移住。ニューヨークのウォール街のマイヤー証券に入社。
1959年当時海外市場へ投資を行っていたワーサム証券に転職。
1961年結婚し、米国の市民権を獲得。
1963年アーノルド・S・ブレイシュローダー証券に転職。ヘッジファンドを設立する。
1969年ジム・ロジャーズと共にソロスファンド(後のクォンタム・ファンド)を設立。
1976年防衛関連銘柄への投資で、61.9%のパフォーマンスを記録。
1977年株価操作の疑いでSECに告発される。ジョーンズ財団と和解。ファンドの規模は1億300万ドルに達する。
1980年ジム・ロジャーズと訣別。1400万ドルのファンド資金を引き揚げる。
ファンドの成長率は3365%を記録。運用資金は2億8000万ドルに達する。
1981年クォンタム・ファンドは創設以来初めての損失(-22%)を出し、運用資金は4億ドルから2億ドルに縮小。
1981年クォンタム・ファンドは創設以来初めての損失(-22%)を出し、運用資金は4億ドルから2億ドルに縮小。
1992年イギリス政府の為替介入に対抗して英ポンドへ空売りを行い、15億ドルもの利益を得る。
1998年クォンタム・ファンドがその規模(運用資産)において世界最大のヘッジファンドになる。
2000年インターネット・バブルの崩壊によって60億ドルを失う(これは同バブル崩壊によって損失を被ったあらゆるファンドの中でも最大の損失額に相当する)。ファンドの規模は100億ドルから40億ドルへ縮小。
2010年ファンドの規模が史上最高額の270億ドルに達する。
2011年世界経済フォーラム(ダボス会議)で投資から引退することを表明。
2011年7月26日ソロス・ファンド・マネジメントは外部投資家から受け入れていた相対的に少額の投資金を年内に全額返還することを表明。
2013年アベノミクスの量的緩和政策による円安相場で10億ドルの利益を得る。
2017年創設した慈善団体「オープン ・ソサエティー財団」に約180億ドルの資金を移管。

防衛関連銘柄での成功

あまり知られていないソロスとロジャーズの成功をお伝えしておきましょう。

1973年10月に、イスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国との間で第四次中東戦争が勃発。当時、ロッキード社は倒産の噂が出ているほどでした。ふたりはイスラエルに支援をしていたアメリカと、エジプトを支援していたソ連に着目。優勢だったエジプト軍は技術の差であると分析し、国防総省の関係者や専門家にヒアリング。ロッキード社をはじめとした防衛関連企業を訪ね回りました。

そして、ロッキード社やローテル社、E・システムズ社などの防衛関連銘柄を購入しました。

技術開発で後れをとった米国政府は、その遅れを取り戻すべく防衛産業への予算を強化しました。

ふたりの思惑は的中し、ソロスファンドは61.9%という驚異のリターンを記録しました。

【防衛関連銘柄の上昇率】

ロッキード社:2ドル → 120ドル(6000%)

ローテル社:35セント → 31ドル(8800%)

E・システムズ社:50セント → 45ドル(9000%)

プラザ合意でのドル売り

ジョージ・ソロスと言えば「英ポンド売り」が有名ですが、本人が「一世一代の大儲け」とと語るのは米ドル売りです。

1980年代に米国の貿易赤字は拡大していました。赤字のため米ドルの需要は少ないはずですが、投機的な資本の流入が米ドルの価格を押し上げていました。

この時にソロスは「米ドルは暴落する」と判断しました。その根拠は、実体の伴わない値上がりはいつか適正価格に戻るという考えがあります。これが、英ポンド売りにも大きく影響します。

そして、ソロスは主要通貨(日本円、ドイツマルク、英ポンド)に対して7億2000万ドル相当のポジションを保有。当時のファンドの全資本を7300万ドルも上回る金額でした。

そして1985年9月22日、先進5カ国がドル安にするために為替市場に協調介入を行うプラザ合意を発表。米ドルは大暴落し、一晩で3000万ドルもの利益を上げたとされています。

その後も、米ドル売りを加速。日本円とドイツマルクの保有高を2億900万ドルにし、ドルのショートポジションを1億700万ドルに増加。さらにポジションを大きくし、最大でファンドの規模の2倍となる14億6000万ドルものポジションを保有したとされています。

この年の8月から12月までの4カ月で、ファンドは35%成長。2億3000万ドルの利益を上げました。

▼プラザ合意時のドル円チャート

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イングランド銀行を潰した男

ソロスは、「イングランド銀行を潰した男」の異名を持っています。

これは、英ポンド売りを行うことでイングランド銀行の英ポンド買いの介入を破り、イギリスから欧州為替相場メカニズム(ERM)からの脱退を余儀なくさせたからです。

1990年に、イギリスは欧州為替相場メカニズムへ参加しました。これは、欧州為替相場の変動を抑制し、通貨の安定性を保つために、採用された制度です。イギリスは英ポンドの対ドイツマルク相場の変動幅を6%に収める必要があり、ほぼ固定相場のようなかたちが取られていました。

当時は西ドイツのインフレ率が最も低く、最大の外貨準備高となっていたため、加盟国はドイツマルクに対して自国通貨の変動幅をほぼ固定していました。自国通貨が変動制限幅の下限に近づいたらインフレを抑えるために利上げを行うという暗黙の合意がありました。

しかし、当時のイギリスは景気が悪く英ポンドは必然的に売られやすくなります。しかし、景気が悪いため利上げはできず、中央銀行のイングランド銀行が英ポンドを市場介入することで買い支えるしかありませんでした。

イギリス大蔵省は1992年9月上旬、マルク建てで143億ドルもの借り入れを行い、英ポンドの相場を買い支えていました。

欧州為替相場メカニズムへの参加維持を継続するために、景気が悪いにもかかわらず利下げをせずに、通貨高を支えるという歪みが起きていたのです。

そこで、当時のクォンタム・ファンドの運用実務責任者を務めていたスタンレー・ドラッケンミラーが英ポンドとイタリアリラを売るアイディアをソロスに提案し即決。

ドラッケンミラーが40億ドルのポジションの保有を考えていたところ、ソロスは「2倍かそれ以上」としました。

そして世界中の銀行から英ポンドの信用枠を確保し、100ほどの支店から合計で100億ドル相当(当時のレートで1兆2000億円)もの信用枠を取り付けてポジションを構築しました。

ここまで大がかりなポジションを保有した背景には、ソロスが参加したカンファレンスでドイツ連邦銀行のシュレジンガー総裁が、ドイツがポンドを支えるために市場介入することはない、そしてリラが健全ではないとほのめかしていたことを知っていたからのようです。

9月1日、先に反応したのはイタリアリラでした。ニューヨークでリラ切り下げの噂が流れると、売りが加速。9月13日には7%切り下げられました。そして、9月15日には英ポンドの売りが加速。イングランド銀行が30億ポンドもの買い支えに出たものの、英ポンドは上昇しませんでした。

これらの動きを見て、ソロスは勝利を確信。ドラッケンミラー氏に全てを任せたそうです。

そして、運命の9月16日。イギリスは最後の手段に出て、金利を2%引き上げました。これがイングランド銀行の限界を感じさせたのか、一斉に英ポンド売りに傾きました。

その後、さらに金利を3%上げる強硬策に出たものの、英ポンドの下落は止まらず、イギリス、メージャー首相はEMAから脱退を表明しました。

この日だけで、イングランド銀行は440億ポンドの外貨準備のうちの3分の1を市場に投入したといわれています。それでもヘッジファンドに勝てなかったこの日のことを、「ブラックウェンズデー」と呼びました。

後にイギリスのノーマン・ラモント大蔵大臣は「できることなら市場で150億ドル相当のポンド買いを実行し、暴落を阻止したかった」と語りました。それを聞いたソロスは「こちらは、それと同額を買おう」と語ったようです。

さて、「イングランド銀行を潰した」と言われているソロスですが、イギリスをめちゃくちゃにしたのでしょうか。

政府関係者は、「ヨーロッパの夢を台無しにした犯罪者」、「イギリスの納税者に25ポンドを負担させた」などと、ソロスを痛烈に批判しました。

しかし、イギリス市民の反応は違いました。

政府から10億ドルもかすめ取るとは大したものだ、現代のロビンフッドなどと英雄となりました。

結果的に英ポンドが安くなり、イギリスがERMを離脱後、自由に金利を変更できるようになったことで経済は安定。

1990年から92年にかけて、イギリスの実質GDPは1.2%減少していました。しかし通貨安になったことで貿易輸出は伸び、その後の3年間は平均3.2%という成長を遂げました。

皮肉にも、イギリス政府が膨大な資金を投じて必死に阻止しようとした英ポンドの価格は、それができなかったことにより国の発展につながっていったのです。

ドラッケンミラー氏のポンド売り戦略は、非常に論理的であり、避けようのない事態の到来を少しだけ早めただけといえそうです。

クォンタムファンドの利益

この一連の騒動により、英ポンドはおよそ10%下落しました。そして、この空売りによる利益はおおむね10億ドルと言われています。

しかし、それ以上に大きかったのはイギリス株や国債などのポジションを含めた利益で、20億ドル程度だったといわれています。

つまり、ソロスは英ポンドの売りで大儲けしたと思われていますが、そのアイデアはドラッケンミラー。そして、本当に大きな利益を出したのは株式や債券の取引だったのです。

その年のファンドは68%の伸びを見せ、37億ドルもの収益を上げたそうです。

なお、フィナンシャル・ワールド誌が発表した1993年度の長者番付によると、1位がソロス(所得額:11億ドル)、そして第4位がドラッケンミラー(所得額:2億1000万ドル)と圧倒的な稼ぎを叩き出しています。

アベノミクス

2012年末に始まったアベノミクスでも、ソロスは大きな利益を上げました。

アベノミクスで始まった大胆な金融緩和による円安相場で、ドル円を買いで参入。わずか2カ月で1000億円以上の利益を上げたと記者会見で発表しました。しかし、その後のさらなる円高と株高により、クォンタム・ファンドは、55億ドルもの利益を上げた。

これはジョン・ポールソンのポールソン&カンパンパ―がリーマン・ショックで収益を上げた額に次ぐヘッジファンド史上最高額にも上ります。

その後に、クォンタム・ファンドは顧客へ資金を返還していったためソロス氏の収益は分かりかねます。しかし、2015年のヘッジファンド報酬うが3億ドルであったことを鑑みると、成功報酬が利益の20%だとすると1500億程度の収益を上げていることになります。

まとめ

ヘッジファンドは株式市場で注目を集めることが多いものの、ソロスは為替市場で大きな収益を上げたという特徴があります。

為替市場は、1日あたり4兆ドルもの売買代金を誇り、高い流動性を誇ります。そのため、巨大なヘッジファンドであれば、株式市場よりも為替市場の方が収益を上げやすいといえます。

ここにソロスの哲学的な考えが合致したのでしょう。市場には一定の効率性がありますが、為替市場は往々にして市場参加者と政府と政治の都合から時に非効率で非合理な相場を形成します。

グローバル化が一層進んでいることから、各国政府は通貨安競争を行うことで貿易を有利に進めようとしています。

また、巨大なGDPを誇る国であっても通貨価格のむやみな乱高下を防ぐために、為替レートを管理しようとしています。しかし無理な金融政策や管理相場制度を行うと、イングランド銀行のようにどれだけ巨大な介入を行ったとしても価格を守り切れない結果となるのです。

不均衡な相場は必ず崩れるというソロスの哲学を、投資のアイディアにしてみてはいかがでしょうか。

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